2011年11月27日 ティム・ウォーカー師
真実なる神様
民数記23章1ー26節
皆さんは、最近誰かがウソをついているのを聞きましたか。私たちは、誰かがウソをつくのを聞いたとしても、それほどびっくりはしないと思います。ビジネスの世界や、政治の世界、広告の世界など、ウソをつくことはほとんど当然のようになっていますが、家族や友達の間でもウソをつくことはあるかもしれません。気を付けなければ、間違っている宗教や異端で惑わされる可能性もあります。残念ながら、どこに行ってもある意味、ウソが社交辞令のようになっている社会に私たちは生活しています。この目の前の世界だけがあるとしたら、何が本当か何がウソかは保証がありません。しかし、真理をゆがめてしまう人間とは違い、聖書の神様は真実なお方です。聖書は最初から最後まで神様の真実を語っています。
今日は、民数記23章19節を土台として「真実なる神様」というテーマについてご一緒に考えてみたいと思います。この箇所の背景を少し説明します。イスラエルの民はエジプトのパロのもとで400年間苦労してから、神様が彼らをエジプトから贖い出されました。神様が用意された地であるカナンへ入る前に、イスラエルは神様と共に40年間荒野をさまよいました。そして、その間に、イスラエルは反感を抱いた周りの民族たちと戦いました。イスラエルは神様の偉大な力によって民数記21章で書いてあるように、アモン人やエモリ人という民族などを打ち倒しました。
民数記22章に入ると、当時モアブの王様であったバラクは、イスラエルが他の民族にしたことや、彼らの人数が多いということを耳にすると、非常に恐れました。モアブ人もその打ち倒された人々と同じ目に合わされてしまうと思っていたからです。そして、バラク王は当時先見者として高い評判を得ていたバラムと言う人物の助けを求め、自分のところに呼び寄せます。バラク王はバラムにイスラエルの民を呪わせようとし、民数記22章6節後半で、「私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている」と確信を持ってバラムに言います。バラク王はバラムの言葉には効果があるということを疑うことなく信頼しています。
ところが、以前神様はイスラエルの先祖であるアブラハムにこうおっしゃいました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」(創世記12:2,3)神様はすでにこうおっしゃいましたので、神様のご計画に反して、イスラエルの民を呪わせようとしたバラク王の計画の失敗は明らかなものとなります。しばらくすると、バラムは真実なる神様と出会って、イスラエル人を呪えなくなってしまいます。それだけでなく、バラムは、首を長くして待っていたバラク王に神様の真実な御言葉を伝えます。
23章8節でバラムは「神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。」とバラク王に言います。もちろん、この真実を聞いて、バラク王はひどいショックを受け、がっかりしましたが、もう一度バラク王は、自分の神にいけにえを捧げながらバラムにイスラエルを呪わせようとします。
そして、23章19節で注目していただきたい御言葉として:「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく悔いることがない神はいわれたことをなさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。」民数記の23章から24章において、バラムは真実なる神様に選ばれたイスラエルをほめたたえ続けます。そしてあげくの果てには、バラムはバラク王の国であるエドムの裁きについて告げます。この物語を聞いて、どうして異邦人の先見者バラムが真実を語ることができたのだろう、と不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここで大切なことは敵対する異邦人でさえ、神様はご自分の真実を証しする者として用いることがおできになるのだということです。
19節を中心として、この箇所は神様のご性質について主に三つのポイントを語っています。まず一つ目のポイントは、神様は真実なお方であるということです。二つ目のポイントは、神様は真実を告げられるということです。そして、三つ目のポイントとして、神様は告げられた真実を立証されるということです。では、この三つのポイントに従って神様の真実について考えていきたいと思います。
まず一つ目のポイントは「神様は真実なお方である」ということです。
19節でバラムは神様と人間の相違を告げます。つまり、神様の真実と人間の不誠実とを比較します。「神は人間ではなく、偽りを言うことがない」と書いてあります。神様は偽りを言うことがありませんが、人間は生まれつき偽りを言う存在です。ちょっと小さい子どもを見ても、この事実は明らかですね。自分の都合に合うように簡単にウソをついてしまいます。子どもにウソをつくことは教える必要がありません。子どもが成長していくに従って、ウソの付き方も洗練されていきます。しかし、本来の人間は違いました。人間は真実の神様の形に似せて、ウソをつかない完ぺきなものとして作られました。にもかかわらず、アダムとエバはサタンのウソを信じてから、自分たちもウソつきになってしまいました。その結果、神様の前で恥を感じ、み顔を避け、エデンの木の間に身を隠しました。そして、自分たちの罪を認めず、互いに責め合い、真実な神様との関係を破ってしまいました。
アダムとエバがエデンの園から追い出されて以来も、ウソをつく傾向は全人類に広がってしまい、バベルの塔のように社会そのものが神様を否定し、ローマ1:25のパウロの言葉を借りるなら、神の真理を偽りと取り代えてしまいました。
しかし、神様は全く違います。パウロは神様がバラムに与えた言葉と同じように、テトスへの手紙1:2で「偽ることのない神」と言う表現を使っています。バラク王は、霊的な力を使えば自分の計画通りに欲しいものを叶えられると思っていました。しかし、バラク王にしても、先見者バラムにしても、どのような方法でも、絶対に真実である神様を操ることはできません。神様は、ご自分のご性質を偽ることはありません。これは本当にすばらしいことですね。
二つ目のポイントは「神様は真実を告げられる」ということです。
神様は偽りを言うことがないだけではなく、真実しか告げられないのです。家の蛇口をひねると、飲める水が出るのを期待しますね。でも、これは必ずしもそうでもありません。汚れた水が出る可能性もあります。しかし、箴言30:5によると「神の言葉はすべて純粋」です。
神様のご性質は100%純粋なので汚れた言葉をおっしゃることは不可能です。神様がいつも真理だけを語られるということは私たちにとってどういう意味があるでしょう。
まず、聖書を通して真実である神様の御言葉をしっかりと聞くべきです。言うまでもなく、クリスチャンは牧師先生の説教に良く耳を傾けるべきですし、毎日個人的に聖書を読むことは大切です。そして、他のクリスチャンと一緒に聖書を読むことも励ましになるでしょう。聖書は独特な権威があります。JECAの信仰告白に次のように書かれています。「聖書は、旧新約六十六巻からなり、すべて神によって霊感された、誤りのない神のことばである。聖書は、神が救いについて啓示しようとされたすべてを含み、信仰と生活との唯一絶対の規範である。」私たちは、聖書の権威を理解し、認めなければいけません。先週、木村先生がペテロの手紙第一2章からおっしゃったように、クリスチャンは霊的な成長のために、乳飲み子のように純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。(2:2)それがクリスチャンとして生きるために不可欠なことです。そうすることで、私たちは神のみこころを知り、神に従って生きることができるからです。ある神学者はこう言いました。「ルターは、クリスチャンは耳で生きると言いましたが、その意味は、クリスチャンの全生涯が神の御言葉に聞き続ける生涯であるということです」。
世界中には、色々なすばらしい文学があります。文学を通して真実について多くのことを教えられます。そして、すべての真実は神様の物です。しかし、人間が作った文学などはすべて純粋というわけではなく、真実なことも入っている反面、誤りも入っています。ですから、何が本当で何がウソかということを聖書の真理に照らし合わせて判断することが必要です。
また、神様は真実を告げられるので、聖書を読むと励まされることもあるし、受け入れにくいこともあります。バラク王にとってバラムを通して聞いた神様の御言葉はどんなに受け入れにくかったでしょう。神様の御言葉はバラク王が期待していた言葉と正反対のものでした!私たちも、聖書を読む時、また説教を聞く時に、時として避けたい御言葉があるかもしれません。なぜ避けたいかというと、私たちは変えたいと思わないのに、その御言葉はいつも私たちを変えようとするからです。バラク王がもし神様の言葉を受け入れて悔い改めていたら、告げられた神様の真実の御言葉によって変えられて新しいスタートができたかもしれませんが、バラク王は御言葉に耳を傾けようとしませんでした。私たちは、バラク王のような間違いをしないようにしましょう。そして、むしろ自分にとって受け入れにくい御言葉にも、特に注意して聞くようにしましょう。
そして、神様は真実を告げられるので、私たちが礼拝する神様はいつも真実を告げられるということを覚え、私たちも真実を告げる者になることを目指すべきです。パウロはコロサイ人にこう命じました。「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、神の知識に至るのです。」(コロサイ3:9,10)これは私たちの目標ですが、時には、ウソをついて罪を犯してしまうことがあります。しかし、神様はご自分の契約に忠実なお方なので、私たちが失敗しても、イエス・キリストの尊い血潮によって赦して下さいます。
三つ目のポイントは、「神様は告げられた真実を立証される」ということです。
神様は真実なお方、そして、真実を告げられるというだけではありません。神様は告げられた真実を立証されます。19節には「神はいわれたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」とあります。
人間は色々なことを言うにもかかわらず、いろいろな理由で言った通りに実行できない時も多いですね。言ったことを実践したいという意志が強くあったとしても、実際には忘れてしまったり、気持ちが変わってしたくなくなる時も良くありますね。もちろん、やる気があっても状況によってできない時もあります。例えば、先日私たちがイギリスへ一時帰国した時に、たくさんの友達や知り合いにも会えましたが、最後の数日になって、思っていたより時間が足りなくなってしまったので、残念ながらいくつかの約束をキャンセルしないといけませんでした。神様が約束を破ったりキャンセルしたりすることはありません。アブラハムに子孫、祝福、そして土地を約束されました。ですから、どんなにバラク王がアブラハムの子孫を呪って傷めつけたいと望んでもそれは不可能だったのです。
また、神様のタイミングは私たちのタイミングと違いますから、ご自分の告げられた真実を立証されるまでは長い時間かかる場合が多くあります。しかし、必ず言われたことをなさり、約束されたことを成し遂げられます。ご自分の民はエジプトで400年も滞在していましたが、神様は約束されたことを忘れられず、彼らと共におられ、400年の歳月が満ちた時にエジプトから購いだして下さいました。
聖書の中には数多くの約束が入っています。数え方によって3000から7000以上もの約束があると言われています。そして、すべての神様の約束はイエス・キリストを中心に成就されます。パウロはコリントにある教会に「神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました」と確信を持って書きました。私たちの罪の赦し、義と認められること、神様の子どもとなること、永遠の命の希望、これらの約束は神様の恵みによってすべてイエス様を通していただけます。
今日からアドベントに入りましたが、クリスマスの季節はイエス様にある約束を思い出す機会です。そして、クリスマスシーズンに限らず、私たちは一年中このすばらしい約束を覚えてお祝いできるのです。神様は旧約時代の信者たちをはじめとして、私たちを含めて、ご自分の民と結んだ契約を決して破られることはありません。この約束こそが私たちの希望です。例え、自分自身や他の人が約束を守れないとしても、神様は真実であるお方なので、決してがっかりさせられません。この100%信頼できる神様を、私たちは確信と喜びを持って礼拝するべきなのです。
民数記23章1ー26節
皆さんは、最近誰かがウソをついているのを聞きましたか。私たちは、誰かがウソをつくのを聞いたとしても、それほどびっくりはしないと思います。ビジネスの世界や、政治の世界、広告の世界など、ウソをつくことはほとんど当然のようになっていますが、家族や友達の間でもウソをつくことはあるかもしれません。気を付けなければ、間違っている宗教や異端で惑わされる可能性もあります。残念ながら、どこに行ってもある意味、ウソが社交辞令のようになっている社会に私たちは生活しています。この目の前の世界だけがあるとしたら、何が本当か何がウソかは保証がありません。しかし、真理をゆがめてしまう人間とは違い、聖書の神様は真実なお方です。聖書は最初から最後まで神様の真実を語っています。
今日は、民数記23章19節を土台として「真実なる神様」というテーマについてご一緒に考えてみたいと思います。この箇所の背景を少し説明します。イスラエルの民はエジプトのパロのもとで400年間苦労してから、神様が彼らをエジプトから贖い出されました。神様が用意された地であるカナンへ入る前に、イスラエルは神様と共に40年間荒野をさまよいました。そして、その間に、イスラエルは反感を抱いた周りの民族たちと戦いました。イスラエルは神様の偉大な力によって民数記21章で書いてあるように、アモン人やエモリ人という民族などを打ち倒しました。
民数記22章に入ると、当時モアブの王様であったバラクは、イスラエルが他の民族にしたことや、彼らの人数が多いということを耳にすると、非常に恐れました。モアブ人もその打ち倒された人々と同じ目に合わされてしまうと思っていたからです。そして、バラク王は当時先見者として高い評判を得ていたバラムと言う人物の助けを求め、自分のところに呼び寄せます。バラク王はバラムにイスラエルの民を呪わせようとし、民数記22章6節後半で、「私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている」と確信を持ってバラムに言います。バラク王はバラムの言葉には効果があるということを疑うことなく信頼しています。
ところが、以前神様はイスラエルの先祖であるアブラハムにこうおっしゃいました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」(創世記12:2,3)神様はすでにこうおっしゃいましたので、神様のご計画に反して、イスラエルの民を呪わせようとしたバラク王の計画の失敗は明らかなものとなります。しばらくすると、バラムは真実なる神様と出会って、イスラエル人を呪えなくなってしまいます。それだけでなく、バラムは、首を長くして待っていたバラク王に神様の真実な御言葉を伝えます。
23章8節でバラムは「神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。」とバラク王に言います。もちろん、この真実を聞いて、バラク王はひどいショックを受け、がっかりしましたが、もう一度バラク王は、自分の神にいけにえを捧げながらバラムにイスラエルを呪わせようとします。
そして、23章19節で注目していただきたい御言葉として:「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく悔いることがない神はいわれたことをなさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。」民数記の23章から24章において、バラムは真実なる神様に選ばれたイスラエルをほめたたえ続けます。そしてあげくの果てには、バラムはバラク王の国であるエドムの裁きについて告げます。この物語を聞いて、どうして異邦人の先見者バラムが真実を語ることができたのだろう、と不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここで大切なことは敵対する異邦人でさえ、神様はご自分の真実を証しする者として用いることがおできになるのだということです。
19節を中心として、この箇所は神様のご性質について主に三つのポイントを語っています。まず一つ目のポイントは、神様は真実なお方であるということです。二つ目のポイントは、神様は真実を告げられるということです。そして、三つ目のポイントとして、神様は告げられた真実を立証されるということです。では、この三つのポイントに従って神様の真実について考えていきたいと思います。
まず一つ目のポイントは「神様は真実なお方である」ということです。
19節でバラムは神様と人間の相違を告げます。つまり、神様の真実と人間の不誠実とを比較します。「神は人間ではなく、偽りを言うことがない」と書いてあります。神様は偽りを言うことがありませんが、人間は生まれつき偽りを言う存在です。ちょっと小さい子どもを見ても、この事実は明らかですね。自分の都合に合うように簡単にウソをついてしまいます。子どもにウソをつくことは教える必要がありません。子どもが成長していくに従って、ウソの付き方も洗練されていきます。しかし、本来の人間は違いました。人間は真実の神様の形に似せて、ウソをつかない完ぺきなものとして作られました。にもかかわらず、アダムとエバはサタンのウソを信じてから、自分たちもウソつきになってしまいました。その結果、神様の前で恥を感じ、み顔を避け、エデンの木の間に身を隠しました。そして、自分たちの罪を認めず、互いに責め合い、真実な神様との関係を破ってしまいました。
アダムとエバがエデンの園から追い出されて以来も、ウソをつく傾向は全人類に広がってしまい、バベルの塔のように社会そのものが神様を否定し、ローマ1:25のパウロの言葉を借りるなら、神の真理を偽りと取り代えてしまいました。
しかし、神様は全く違います。パウロは神様がバラムに与えた言葉と同じように、テトスへの手紙1:2で「偽ることのない神」と言う表現を使っています。バラク王は、霊的な力を使えば自分の計画通りに欲しいものを叶えられると思っていました。しかし、バラク王にしても、先見者バラムにしても、どのような方法でも、絶対に真実である神様を操ることはできません。神様は、ご自分のご性質を偽ることはありません。これは本当にすばらしいことですね。
二つ目のポイントは「神様は真実を告げられる」ということです。
神様は偽りを言うことがないだけではなく、真実しか告げられないのです。家の蛇口をひねると、飲める水が出るのを期待しますね。でも、これは必ずしもそうでもありません。汚れた水が出る可能性もあります。しかし、箴言30:5によると「神の言葉はすべて純粋」です。
神様のご性質は100%純粋なので汚れた言葉をおっしゃることは不可能です。神様がいつも真理だけを語られるということは私たちにとってどういう意味があるでしょう。
まず、聖書を通して真実である神様の御言葉をしっかりと聞くべきです。言うまでもなく、クリスチャンは牧師先生の説教に良く耳を傾けるべきですし、毎日個人的に聖書を読むことは大切です。そして、他のクリスチャンと一緒に聖書を読むことも励ましになるでしょう。聖書は独特な権威があります。JECAの信仰告白に次のように書かれています。「聖書は、旧新約六十六巻からなり、すべて神によって霊感された、誤りのない神のことばである。聖書は、神が救いについて啓示しようとされたすべてを含み、信仰と生活との唯一絶対の規範である。」私たちは、聖書の権威を理解し、認めなければいけません。先週、木村先生がペテロの手紙第一2章からおっしゃったように、クリスチャンは霊的な成長のために、乳飲み子のように純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。(2:2)それがクリスチャンとして生きるために不可欠なことです。そうすることで、私たちは神のみこころを知り、神に従って生きることができるからです。ある神学者はこう言いました。「ルターは、クリスチャンは耳で生きると言いましたが、その意味は、クリスチャンの全生涯が神の御言葉に聞き続ける生涯であるということです」。
世界中には、色々なすばらしい文学があります。文学を通して真実について多くのことを教えられます。そして、すべての真実は神様の物です。しかし、人間が作った文学などはすべて純粋というわけではなく、真実なことも入っている反面、誤りも入っています。ですから、何が本当で何がウソかということを聖書の真理に照らし合わせて判断することが必要です。
また、神様は真実を告げられるので、聖書を読むと励まされることもあるし、受け入れにくいこともあります。バラク王にとってバラムを通して聞いた神様の御言葉はどんなに受け入れにくかったでしょう。神様の御言葉はバラク王が期待していた言葉と正反対のものでした!私たちも、聖書を読む時、また説教を聞く時に、時として避けたい御言葉があるかもしれません。なぜ避けたいかというと、私たちは変えたいと思わないのに、その御言葉はいつも私たちを変えようとするからです。バラク王がもし神様の言葉を受け入れて悔い改めていたら、告げられた神様の真実の御言葉によって変えられて新しいスタートができたかもしれませんが、バラク王は御言葉に耳を傾けようとしませんでした。私たちは、バラク王のような間違いをしないようにしましょう。そして、むしろ自分にとって受け入れにくい御言葉にも、特に注意して聞くようにしましょう。
そして、神様は真実を告げられるので、私たちが礼拝する神様はいつも真実を告げられるということを覚え、私たちも真実を告げる者になることを目指すべきです。パウロはコロサイ人にこう命じました。「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、神の知識に至るのです。」(コロサイ3:9,10)これは私たちの目標ですが、時には、ウソをついて罪を犯してしまうことがあります。しかし、神様はご自分の契約に忠実なお方なので、私たちが失敗しても、イエス・キリストの尊い血潮によって赦して下さいます。
三つ目のポイントは、「神様は告げられた真実を立証される」ということです。
神様は真実なお方、そして、真実を告げられるというだけではありません。神様は告げられた真実を立証されます。19節には「神はいわれたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」とあります。
人間は色々なことを言うにもかかわらず、いろいろな理由で言った通りに実行できない時も多いですね。言ったことを実践したいという意志が強くあったとしても、実際には忘れてしまったり、気持ちが変わってしたくなくなる時も良くありますね。もちろん、やる気があっても状況によってできない時もあります。例えば、先日私たちがイギリスへ一時帰国した時に、たくさんの友達や知り合いにも会えましたが、最後の数日になって、思っていたより時間が足りなくなってしまったので、残念ながらいくつかの約束をキャンセルしないといけませんでした。神様が約束を破ったりキャンセルしたりすることはありません。アブラハムに子孫、祝福、そして土地を約束されました。ですから、どんなにバラク王がアブラハムの子孫を呪って傷めつけたいと望んでもそれは不可能だったのです。
また、神様のタイミングは私たちのタイミングと違いますから、ご自分の告げられた真実を立証されるまでは長い時間かかる場合が多くあります。しかし、必ず言われたことをなさり、約束されたことを成し遂げられます。ご自分の民はエジプトで400年も滞在していましたが、神様は約束されたことを忘れられず、彼らと共におられ、400年の歳月が満ちた時にエジプトから購いだして下さいました。
聖書の中には数多くの約束が入っています。数え方によって3000から7000以上もの約束があると言われています。そして、すべての神様の約束はイエス・キリストを中心に成就されます。パウロはコリントにある教会に「神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました」と確信を持って書きました。私たちの罪の赦し、義と認められること、神様の子どもとなること、永遠の命の希望、これらの約束は神様の恵みによってすべてイエス様を通していただけます。
今日からアドベントに入りましたが、クリスマスの季節はイエス様にある約束を思い出す機会です。そして、クリスマスシーズンに限らず、私たちは一年中このすばらしい約束を覚えてお祝いできるのです。神様は旧約時代の信者たちをはじめとして、私たちを含めて、ご自分の民と結んだ契約を決して破られることはありません。この約束こそが私たちの希望です。例え、自分自身や他の人が約束を守れないとしても、神様は真実であるお方なので、決してがっかりさせられません。この100%信頼できる神様を、私たちは確信と喜びを持って礼拝するべきなのです。


